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から本当に望んでいるもの、真の豊かさ幸せとはいったい何でしょうか?

Everytime you act you add strength to the motivating idea behind what you have done.

2021年8月23日バルトの人々がコロナの狂気に対して勇気を持って立ち上がり自由の為に行動を始めた事を精一杯応援します!!

オフィシャルサイト: https://balticway2021.com/  関連記事:エストニア語のニュースサイト
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こんなに物質的に豊かになった日本でなぜ多くの人々は更なる幸福を探しているのだろうか?

経済的に豊かになって大変便利な世の中になり、不安も少なく安心して暮らしていけるはずの日本でどうして心の豊かさや幸福を求める人がいるのだろうか?

物質的に、経済的に豊かになる=人生が豊かになる、と人々は信じて努力しているし努力してきただろう、、、でもその追求しているもの自体が真の人間の豊かさ、幸福感を阻害する原因にもなるという皮肉な結果が待っているとは思いもしないだろう、、、

楽になる、便利になる=幸福度が上がる、暮らしが豊かになるとは限らないのだという事に人々は気がつき始めたのではないだろうか、、、僕が思う答えを極々要約して言えば、現代の生活はモノやサービスがあふれ、人々にお金があるがゆえ社会の有償サービス等を利用し、いわばカネで解決できるので、無償の他人の助けを借りずとも殆ど物事の処理が出来るようになった、そのため仕事や商売以外に他人を助ける事も、又助けられる事も少なくなった、、、

つまり日々の暮らしで人の役に立ち、人に感謝され、人に尊敬され、人に必要な存在なのだと実感する事が少ないのが現代社会、特に都会での暮らしなのだ、、、本当の意味での喜びや楽しさ、人生の豊かさは心が通った人々の係わりの中でしか生まれないと思うのだが、逆に都会等で暮らしていると過剰なモノやサービスは当たり前で必然的に他人との係わりは薄れ、機械的にまわる世の中にいると次第に他人に感謝する気持ちも無くなっていく、必要以上に他人と係わらなくなるのは色々な人であふれる都会では他人をいちいち信頼できる人間なのかを確かめるのが面倒だからだ、、、結果不本意ながらも心は閉ざされていってしまう、、、

自分の欲望の赴くままに欲しいものを手に入れ、物にあふれ物質的に満ち足りているように見えていてもなぜ心の中は隙間風が吹いているのか、、、自分を偽り虚構の中に一人孤独に苦しみ生きているからなのか、、、心を閉ざし続け目の前にあるものが見えなくなっているのか、、、

生きていて何も悩みがないという人は少ないと思いますが、友人や仲間が欲しい、恋人が欲しい、結婚したい、愛し愛されたい、人に認められたい、人の役に立ちたい、生き甲斐を見つけたい、好きな事をしたい、楽しく生きたい、、、等と思っている人は多い。

理屈では解かる、、本にもそう書いてある、、でも出来ない、やれない、面倒くさい、本当の意味で理解できない、、、、、どうしてなのか?何故そうなるのか?っていうのがそもそもの問題なんです、、、何故しないのか、何故なれないのか、何が邪魔をしているのか、、、

人々の幸福のため、暮らしを豊かにするためという目的で色々なものが便利になり、発展した世の中を生きる我々の問題は、人間が本来もっている本能的な部分、人間として生きていく上での重要な部分がある意味脇に追いやられ、ねじれ欠落している結果なのではないか?と思えるのです、、、

つまり、人間が作り出した社会システムの中だけの地位や名誉、成功、お金、評価、楽しさ、便利さ等を自己中心的な欲得を追い求めるあまり純粋な心をどこかに忘れ他人と係わる事を蔑ろにしてきてしまったんじゃないか?社会システムのパーツとして組み込まれ日々忙しく目先の事、仕事以外のことはあまり考えず又考える余裕も無く、只金を稼ぐ為、食う為に(更には国家に貢ぐ為に)人生の貴重な時間を費やしているのだがそんな自覚はあまりない、、、余計な考えを持たずに唯生きている、、、

言いたい事も言わず、見るべきものも見ず、感じるべき感情を押し殺し我慢して生活の為に働く、、、人生における仕事の意味とか何の為に働いているのか等考えもせず日々の忙しさに身を委ねる、、、社会や世間の矛盾に憤ってもどうせ自分ひとりじゃどうしようもないと諦め見ないようにする、、、そんな繰り返しで感覚が麻痺してしまっているのか自分や他人、自然を愛し、大切にするという事を蔑ろにしてきたんじゃないか?と思えてくるのです。

なぜそうなってしまうのか、、、人間の暮らし、幸福感を感じる心とは一体何なのか、、、なぜ矛盾した行動をしてしまうのか、、、科学が発達した現代、人間の体の仕組みも大分わかってきているが、脳みその基本的な働きの記憶がどこにどう蓄えられどう取り出しているのかの働きさえ実はまだまだ不明、、、解っているようで解っていないのだ、、、となると、人生を生きていくうえでの一番本質的とも言える物質でもない心というものはどう探れば良いのだろうか、、、

このページは人生とは一体何なのか?本当の人の幸せって何だろう?と言った直接ホームページ作り等には結びつかない事等独自の視点からボク自身の経験等を踏まえて色々掘り下げ、思う事を書いたりして考えを整理し見つめ直したりしているページなので、興味のない人は読み飛ばして下さい。又書き加えたりしているので以前の内容はやや未熟だったりしますが、そのまま残しています、、苦笑

私たちは行動する度にその行動の動機となった無意識の考え方(心)を強化し続けています、例えば、日々ストレスを抱え望まない仕事や嫌いな人達と接していたりして直ぐにイラついたり怒ったりして感情的に行動してしまうと、その背後に隠れている本当のある種マイナスな自分の世界観、つまり自分の日ごろの不満、妬み、憎しみ、嫉妬、更には劣等感や敵意等をより強化して更にイラつき、怒り易く、キレ易くなってしまうという事、、、。

別の見方をすれば、人間の性質、性格は生まれ持った遺伝特性と人間関係を含む育つ環境に影響され左右される、つまりある種の遺伝的特性を持つ人間がある特定の環境で育つ、暮らす事でその遺伝的特性が強く出るという事実、、

そして人生の中での決定的な影響を与えた重要な出来事によって活性化される遺伝的特性があるという事、、、ある同じ出来事を肯定的に捕らえられる人がいる一方で否定的に捕らえる人もいる、、、なぜある人は悲劇的な出来事から立ち直れたのか、、又ある人は何でもない事の様に思える出来事に打ちのめされてしまうのか、、、

普段は意識する事はない私達がもつ性質や考え方、性格は生まれ持った自分の遺伝的特性と環境等そういった背景によって方向付けられ、強化され、無意識に判断しある考え方、行動パターンに現れる、、、、肯定的、楽観的に捉えられる人はいいんです、問題は同じ出来事でも否定的、悲観的に捉える人達、そしてそれを一人しまいこみ悩み、解決できない人達なのです、、、

人が社会生活をしている中で何かを隠したり、演技したり、嘘をつくことも同じように思うのです、好きなのにそうでない振りをする、逆に嫌いなのにそうでない振りをする、、、なぜそうするのか?、、それを単純明快に説明するのは様々な要素が複雑に絡み合うので難しいと思いますが、人は明らかに他人を意識して生活している。

それは赤ちゃんの時から現在に至るまで様々な人々と係わってきた経験によって学習し適応しようとしてきた結果である、そしてその他人とともに社会というものを作り暮らしている、、という事が大きな要素のひとつであると思うのです、、目の前にある現象の事実そのものはそれ以上でもそれ以下でもない、でもその事実をどう解釈し、どう反応するのかがそれぞれ人によって違う、或いは解釈以前に条件的に反応、つまり条件反射している場合もある、その場合は無意識だろう、、そして行われた行為、言動等に対して人は価値や評価を与えたりする、、、

そして、この他人の評価と言うのがある人によっては実に厄介である、、、なぜか?、、思い起こして欲しい、もし何か恥ずかしいと感じる事をしてしまったとしても、だれも見ていなければ何でもない事だ、無人島で誰かに見られたら恥ずかしいなどとは思わない、、しかし他の人に見られたと認識すると途端に反応が変わりはじめる、、、つまり人の目だ。こう見られたい、こう思われたい、となればこうする、ああ言う、とありのままのとは違う自分になり演じ始める。

事実に対して意識的に反応している場合もあれば無意識に反応している場合もある、ある種の思い込みもある、それらの演じた結果が自分にとって良い、つまり自己否定、低い自己評価につながらないのであればさほど問題にならないが、そうでない場合はそういった様々な出来事を通した行動によってその背景にある動機や考え方、心理的反応等強化され、それを繰り返すことでその強化された考え方等が元でより不安になり、更なる演技や嘘等を必要も無いのに繰り返す、、、それはおそらく人は社会的な動物であり、他人の目、他人からの評価からは逃れられないという事と結びついているように思います。

ある時ある人が仕事で失敗をしたとします、それを自分にとって近い、重要な人間に対してどう説明するか?正直に話すのか言い訳をするのか、更には嘘をつくのか?そういった対応の仕方は自分自身に対する意識している、或いは無意識の自己評価等によって変わってくる場合がある。

つまり、脳みそはそれまでの経験等を元に様々な計算を瞬間的に行い自分に自信のある人は嘘や言い訳がプラスになると思わない、だから一時的に評価等が下がるにしても正直に話す勇気がある、そしてその勇気はより強化されていく、、逆に嘘をついてしまう人は、過去に味わった辛い事実から逃げたい云々等で自分を守るつもりでつい嘘をついてしまう事があるが、実際は守るというよりも嘘をつけばより自分を追い詰め自信を失う結果になりやすい、自信が無いから更なる言い逃れ、嘘をついてしまう、、、個々の行動によってよりその背後の考え方を自ら強化しているという事になる。

という事は、すでに強く思考の中に固定化されてしまっている世間的常識、行動規範、その人の価値観云々を一度見直し、できれば純粋だった幼いころに戻って心をリセットし、これまでの人生の中で植えつけられてしまった、獲得してしまった、自分を縛っているものを意識的に確認し、それらを一つ一つ捨て、客観的にその人にとって望ましい思考、或いは望ましい行動サイクルを作る事ができれば、心に素直に行動し、その思考、行動が考え方の元になった心に影響し、心(動機)そのものが変化し、これまでとはまったく違う人生になっていくかもしれません、、、。

それはどういう事なのか、、、特殊な状況でもない限り人間一人で生きていくのはかなり困難です、、つまり人間は人間が群れを成す共同体の中で生きていく社会的な動物であり、他人と影響しあって自分の人生、歩む方向決めていく、、、つまり、人は目の前にいる人に少なからず影響を受けるということ、そしてその人との心の距離感によって影響の度合いが変わるということ、、、

という事は出会う人間、付き合う人間、側にいる人間によって自分の生き方、考え方、心が感じる幸福感や豊かさ、更には運、ツキが左右されているとも言える、、、そう、この人間(或いは人間の考え、想い等)との出会いで人生のあり方は変わるんじゃないか、、、

今様々な問題を抱えていて、もうどうにもならない、絶望のどん底に居て、八方塞である(と勝手に思い込んでいる、又はそう解釈しているが、実はそうでない場合も多い、、、)と思っている人が居たとすれば、その人にとっての唯一の解決策であろうと思うのは今あるすべて、抱えているものすべてを捨て、180度違った人生、自分では想像もしていなかった様な方向、間逆の方に向かって生きると強く覚悟し、行動する事だろう、、、そうすればまったく新しい人と出会う事が出来、違った価値観を持った人間と触れ合うことで新たな展開が見えてくる、、、これは間違いない、、世界は広い、様々な価値観、暮らしがそこにあるのだ、、そこで恐らく気がつくだろう、いかに小さな世界に自分が生きていたか、、大した事でもない事に捉えられていたか、、、。

ある人が、「良い予感をより多く持った人間が勝つ、成功する人の脳には成功するソフトが入っている、凡人には失敗するソフトが入っている、、ツキとは人との出会いである」、、、とどこかで言っていた、、勝つとか成功の定義は人それぞれだけどある意味斬新で鋭い指摘だと思う、、、

人間の脳(心)をパソコンに置き換えている所が解り易い、つまりパソコンはソフト(OS)が無ければ何もしない、そしてソフトフェアの指令によって持っている能力を発揮し、実行、結果をだす、、、

ソフトウェア、、、プログラミング、、、つまりこうなったらこうするという指令、、、確かに、、、ある種の出来事に対してある種の考え、感情を抱きそれを元に行動する、、、それも無意識のうちに、、、

たった一度きりの人生を如何に生きるのか?それがボクの大きなテーマです。ここ数年、年を重ねてきたせいか分かりませんが、時々人間の死について考えたりします。

もしボクが死に直面した時どんな思いになるのだろうか?一体いつどこで、そしてどんな死に方をするんだろう?等々、、、多少暗いが、、、

と同時にどう生きるのが本当の幸福か?一体ボクの役割は何なのだろうか?豊かで手ごたえのある人生とは?、、そんな事を考えていると生きている意味とか、この地球上の営みとか、今世界で起きている事とかを深く考えるようになりました。

そしてもちろん明確な答えは見つかっていませんし、死ぬまで模索していくのでしょう。


幸せ、豊かさ、幸福感、、、何ともつかみ所の無いこれら一種の感情を追い求める心というのはどういう状態なのか?、、、

たとえ苦しく、辛く、厳しく、孤立している状況に置かれていても幸福感を感じられる人がいる、、、一方で、一見全てに満たされているように見える人が実は悩み苦しんでいたりする、、、何でそうなるのか、何がそうさせるのか、、人が社会で暮らしている以上必ず人間関係が生まれ、その人間関係で悩む人も多い、、なぜ対人関係が苦しくなるのか、、、

人は誰もが幸せになりたいと思っている、不幸になりたいと最初から思う人はまずいないだろう、でも結果的に不幸になりそしてそこにしがみつき抜け出せずにいる人がいる、不幸な状態にある種の安心、安定感さえ覚えてしまう、、、なぜなのか?、、、突き詰めていくと多くの「なぜ?」が出てくる、、、

それは色々複雑な面もあるだろうけれど、単純に考えると置かれたそれぞれの状況で何を優先的に選び何を後回しにするのか、或いは捨てるのかが人によって違うからなのではないか?と感じます。

つまり、予測不能でリスクがある不安定な状況と、嫌だがある程度予測が出来る安定した状況では多くの人は不満ではあるが安定している方を選んでしまうという事、、、いじめや嫌がらせを受けている人がいますが痛めつけられ傷つけられても不安を感じる怖さよりもいい、孤独になりたくない、抵抗したら何されるかが分からない、、根拠が乏しい希望的観測を抱き自分の世界に逃げ込む、、、結果現実世界では何もしない、、という事を優先し、選択する、、、、

逃げる、立ち向かう、一人で新しい生活を始める、間逆の方向に進む等という事はある種の安定した状態を崩すリスキーな選択肢なのでそれなりのエネルギーと意志力が相当程度必要でハードルは高いのです、、嫌がらせやいじめがあったとしてもそれはある種いつもの事、耐え難い状況でも既に常態化してしまっている、、いずれ自分自身を守る為に脳みそは身体的にも精神的にも感覚を麻痺させ苦痛を和らげようとするだろう、、するとどんどん感覚は麻痺し物事に反応しにくくなりエネルギーレベルが落ちていく、、、善し悪しではなく自分も、周りもそんな状態を受け入れてしまって固定化され安定してしまった状態、、、

その状況を突き崩す不安定な状況になるような行動、つまりどんな仕返しやどんな腹癒せくるか分からない、どんな危険が待っている分からない、、という恐怖が勝つと行動しない、、行動する前に頭の中で結論をだしてしまい行動する意欲が薄れ、結果として優先して選択しているのは何もせずただどんなに傷つけられても嵐が去るのを待つという事だけ、、自ら何かを起こす様な能動的な選択肢は選ばない、選べない、、のです。

そうなってしまう前に、ほんの少しの勇気を持ってほんの少しでも行動すると物事は変わり始めます、、人は歩く事を当たり前だと思っていますが、赤ちゃんは歩けません、筋力も弱くバランスを保てないからです、でも徐々に出来るようになっていきます、、つまり安定していた4つんばいの状態から不安定な2本足でたって、バランスを崩して歩き始める、、、心の成長、心の強化も同じ様に思うのです。

つまり、人間は動物といわれるように動き回る生き物です、だからあえて不安定になる状態の2本足で立ちバランスを崩して一歩目を踏み出す、、この一歩目が非常にハードルが高いが、、踏み出し動き出したら後は楽なのだ、、、そして世界は広がり違ったものが見えてくる、、、これを心の問題にも当てはまると思うのです、ストレスを感じ不満な状態に固定化されある種安定化してしまっている人に如何にその安定したバランスを崩し、一歩を踏み出す勇気を与え、立ち上がる力をみなぎらせる事ができるのか、、、そこが問題なのである。

もしこれを見ている人でいじめや嫌がらせ等にあっている人がいるとして、一つアドバイスがあるとすれば、なぜそういったいじめや嫌がらせが発生するのか、どうしていじめられるのか、又いじめるやつがいるのか?を冷静に分析して欲しい。

本当の勇者、強い人間は弱いものいじめはしない、つまりいじめや嫌がらせをするやつはその人間自身も弱いのだ、これは事実である、つまり弱いからこそより弱いと思う攻撃してこないような人間を見つけ、その人をターゲットにして攻撃する、嫌がらせをする等で自分の優位性等を周りに印象付けようとしたりして自分は強い、人気者だ、臆病じゃない等と誇示している、そして周りの傍観者も同じ様に弱いのだ、臆病で他人を心から信頼していない、心を打ち明けられる仲間が居ない、全ての人間関係が希薄で表層的である、、だからある種まわりの友人や仲間等からどう見られているのか、どう評価されているのかをとても気にする、だから周りに合わせたりする。

ではどうすればいじめや嫌がらせが止まるのか、、これは簡単ではないが、、、まずは信頼できる誰か(特に大人)に相談することだが、そして物理的にその場に居ない、近づかない事だが、これは根本解決にならない場合もあるし物理的に動けない場合もあるだろう、、、そこで自分で出来る方法はいくつかあるだろうが現実的で取れる選択肢は多分2つだろう、、、一つは自分がいじめているやつよりも肉体的にも精神的にも強くなるか、もう一つは本当に強いやつを自分の味方につけるか、であろうと思う。

まず、どうすれば強くなれるか、、、これは一朝一夕には行かないが、確実に自分を成長させ一回りも二回りも大きくなれる方法はある、具体的には直接打撃系の武道、格闘技を勧める、これらは他人と殴りあったり、蹴り合ったり、場合によって関節技を決められ首を絞められ落とされる事もあるだろう、、だからもちろん最初は怖い、稽古はつらいし大変だ、しかしいじめられている状態の辛さとはちょっと違う、自分を向上させようという状況の中での辛さだ、そしてそれを他の周りの人間とも共有している、そこに居る人達はより理由はともかく強くなろうという人達ばかりなのだ、そういった人達にもまれるとより強く成長させる為の刺激になる、そしてある時気がつくだろう、肉体が強くなっていくと共に心も強くなっている事に、、、

まず、肉体的に強くなる、仮に自殺まで考えるほど追い込まれているとすれば死ぬ気でやってみる、どうせ死ぬなら強くなってそいつ(ら)をぎゃふんと言わしてからでも遅くは無い、でもある時気が付くはずだ、いじめているやつ(ら)がいかに小さくくだらない連中だという事に、、、肉体的に強くなっていく過程で心も強くなり自信が生まれ、そんな連中に振り回されなくなり自然とちょっかいを出さなくなりいじめも止まるだろう、なぜいじめが止むか、やつらは常に集団で行動し、常に他人、周りの反応を気にしているので空気を読むのに敏感だ、別に手を出さなくても雰囲気が変わっているのはすぐに気がつくだろう、堂々と立ち上がり真正面から冷静にしかし自信がみなぎった目で一瞥してやればいい、目は口ほどにモノを言う。

それでもちょっかいしてくるバカなら自分を守る為にそれまでつんだ稽古の成果をほんの少しそいつにだせばいい、出来れば一対一の時だが、複数で避けられないならその中の一番強いと思われているリーダー的なやつを選んでやる、、しかし徹底的にやってはいけない、やつらが気がつく程度のほんのちょっとだけだ、皆の面前で辱めを与えると必ず評価を気にする弱い連中は陰湿な仕返しを考える、やつらの仲間内でもお互いに見栄を張っているからだ、単純にこいつはやばい、と思わせる事が肝心だ、そうなると手を出さなくなる、やっつける自信がまだ無いならそれが付くまで頑張って体を鍛え稽古しよう、稽古を積めば積むほど確実に強くなる、しつこく絡んでくる愚かなやつがいたら、そいつを稽古場に誘おう、一緒に汗を流してみないか?、と、、それで汗をたっぷりかかせてやろう、素人は1分も動けばヘトヘトになって息も絶え絶えになる、地獄を見れば気が付くだろう(多分)。

又、運良く身近に強い人間がいて自分の見方になってくれるような状況ならそれを示すことできっといじめの状況も変わるだろう、どう示すかは間接的に見せるのが一番だ、孤立していると狙われ易いのだからその人間と親しげにしているだけで効果ある、、まぁそう簡単に強い人間が味方になってくれるという事はそんなにないかもしれないが、、、であるならば、やはり自分が強くなるしかない。

目には見えないが子供と言えども小さな世界で皆縄張り争い、覇権争いをしている、つまり大人になり社会で生きていく上での準備みたいなものだ、もし大人ならそういった事は当然の事だ、ただそれをスマートに、波風立てずに、如何に自分に有利に、という事を経験から学び実行しようとしているだけだろう。

一つの例として、どこかの不良、チンピラに因縁つけられ嫌がらせを受けて困っているいるとしたら正攻法、つまり家なら親、学校なら先生、社会生活なら警察に相談しても実害が無い限り余り効果は期待できない、やつらにとっては相手が怖がってくれるから商売になるのだ、一人になった時に必ずやられる、、そこでやつらが一番いやがるのは何か、を考える、つまり同業者の様なその筋のもの、ホンモノのやくざ者(同等のチンピラだと駄目だろうが、、)が出てくれば普通は手を引く、やつらの世界で面倒になることを避けようとするからである(抗争になる場合もなくはないが、、、)。

やくざがの善し悪しではなくやつらはやつらなりに不要な揉め事は避ける、それが現実なのだ、つまり、こいつに手を出すと損をする、まずい事になるとわかれば自然といじめ、嫌がらせは止む、、いじめを受けている間は死ぬほど辛いかもしれないが、死ぬ気になれば案外何でも出来る、状況は必ず打開できる、住んでいる地域には柔道でも空手でもボクシングでも柔術でも、色々自分を鍛える所は存在する、まずそういった所で自分を鍛える事が必要だ、そういった所に行けば必ず相談に乗ってくれる本当に強い人が居る、それらの人は頼りになる、、そういった所に通うことが出来なければ、まずは筋肉トレーニングをして体を強くする、マラソンとかをしてスタミナをつける、そうすれば自然と心も強くなりスタミナもつく、これは経験してきたから断言できる。

ほんの少しの勇気を持って少しでも行動することで状況はかならず打開できる、不安定になる事を恐れ、そこに留まり続け打ちのめされてしまってから立ち直るのは容易ではない、今が苦しいのであれば何もしないという安定よりも一歩踏み出す不安定の方がよりよい結果をもたらす場合が多い、と思うのである。

ただいじめや嫌がらせと言ってもそれが身体的な攻撃ではなく、無視や仲間はずれ、辱めるような事をしてグループ等の集団で精神的に追い込んでくるような連中はたちが悪い、、大抵は一人ではそういう事はやらない、なぜなら一人一人は弱い人間で、ある種の仮面をかぶって生きているからだ、、そしてかれらがそういった行動をとるのは必ず何かしら理由がある、、彼ら自身も家庭とか何かに問題を抱えている場合が多い、、どんなに矛盾していても彼らはそれを心の中で正当化しようとしている、、、

無視されたり、人格を否定されるような事をされると精神的に大きく傷が付く、ダメージが深い、、それが近い人であればある程辛いものだろう、、、学校とか職場とか限られた場所、空間でそういった事が起こると居場所がなくなり、非常に辛い状態になる、、そういった時の問題解決は容易ではないが、まずその出来事、そしていじめ、嫌がらせをしている連中の人間性(背後に隠れていて見えないもの等)、そして起きた現象を自分の心がどう捉えるのかで問題解決方法は変わってくる。

そんな状況から逃げるのも一つの選択肢だが、離れる、逃げる、という事でより自分の中のトラウマが肥大化してしまう場合がある、、夢の中で幻影が追いかけてくる、他人を見てもその人の事を思ってしまう、、、そうなると忘れることは多分ないだろう(余りに辛く激しい記憶は脳がブロックしてしまう事もあるようだが、、)、、、物理的に離れていてもそういった心の苦しみは消し去ることは容易じゃない、逃げれば逃げるほどついてきてしまう、、、そんな心の恐怖から逃れるには、その問題自身に毅然と向き合うしかないのだろう、、、それは大変勇気がいるしエネルギーもいる、逃げた方が楽だ、、でも根本的に解決したいなら向き合うしかない、、で、仮に向き合ったとして、その時間は長い人生を考えればほんの一瞬だ、、しかし向かわず逃げればそれは長い時間ついてくる、、、

無視されたって、嫌がらせを受けたってそれは一生続くものじゃない、そんな人間関係は人生から見れば短い一瞬のような出来事だ、しかしそのど真ん中にいるとそう思えない、、どう向き合うかでそれが長引いてしまう、、、そんなくだらない事に人生を支配されてしまうか、そうならないかは如何にその事に対して対峙するのかに掛かっている。

解決の方法はいくつかあるだろう、いじめている相手と一対一での対決もある(物理的な決闘、喧嘩じゃなく話をするのもある種の戦いである)、人は他人の前だと態度が変わる、そこで基本的に一対一になる方がいい、その方が素直になり易い、結果として本心が出てくるだろう、本音でぶつかり合ってこそ問題を打開できる、、実はそいつらもいじめにあっていた、苦しんでいた等という事もあるだろう、、そういった事に気が付けば解決は近い。

いじめにあう、嫌がらせを受けるという事は精神的に辛い、出来ればそんな経験はしたくないだろう、しかしこうした体験は人の痛みを理解する、人の優しさを有り難く思うきっかけになり得るだろう、、苦しみを乗り越えた先には、そんな苦しみを経験していない人には到底たどり着けない人を想いやれる心優しい人間になれるのだろうと思う、そして社会はそんな人を必要としている、、、、

ただ、注意が必要なのは相手と対峙して解決できるのは彼、彼女(ら)がある程度健康的な精神を持っている場合のみだ、仮に色々な理由で精神的に普通でない、病んでいる等の場合では相手にしていると余計に話がこじれる、、ストーカー的な粘着質な連中だとしたら相手にしては絶対に駄目だ、感情的に反応したりすればするほどやつらの行動はエスカレートしやすい、、

今の日本では、ある種のストレスなのか素直な感情を抑圧しすぎた結果なのか、欲求不満がたまりすぎたのか、周りに合わせて常に演じている間に自分を失ったからなのか、不幸にも本当に精神的に病んでいる人間がいる、或いは世間的な常識とされるルールに適応できない人もいる、、表面的に普通に見えても心はある意味破壊されぐちゃぐちゃだ、、その人自身ももうどうすることも出来なくなっている場合がある、その意味で彼らも又不幸だが、、、

今まで書いたことはあくまで自分達と似たような健康的な精神性を持った人間が相手という事が前提であって、現代の社会生活では悪とされる犯罪行為を普通に犯してしまう困った人間もいるのもまた事実、そうなるとまともに対処することは困難極まりないどころか、こちらからアプローチする事で彼らをより凶悪にしてしまう可能性もある、人生のすべてをかけて戦うというのであれば別だが、リスクは大きい、、頼りになる人がそばに居ればその人と協力し、居なくても、出来るだけ早くその場を離れ、逃げ、暮らしを180度変える方がよりベターと言えるかもしれない、、、。

一応まとめると、いじめが起きやすいのは集団の中である時と心得て、いじめをする人間は弱く心に問題を抱えているという事を理解する、そして不幸にもいじめのターゲットにされたなら周りにいる信頼できる人に相談する、そしてまずはその場から物理的に離れる、死ぬ程苦しく辛い思いをしてまで留まる程価値のある所はまずない、状況が改善しない限り戻る必要も無いかもしれない(戦後教育の延長線上にある学校等これからの時代行かなくても良い、むしろ今の日本の学校教育は弊害が多い、別問題だが問題は根深い)、そして暮らしの基本となる生活習慣を身に付け、肉体的、精神的に強くなろうと努力しよう。仮に物理的に離れないとして、更にいじめる相手が継続的にちょっかいを出してくるのであれば、そして精神的に普通なら一対一になれる状況を作り対峙してみる、集団でいる時には感情的に反応しない、しかし気合を入れて普通にやり過ごす、、、しつこくちょっかいを出してくるなら集団のリーダーと思われる人間と対峙する(必ずしも喧嘩をするという意味ではない)、しかし恥はかかせない、侮辱されたと感じた人間は恨みを抱いてしまうからだ、 だからちょっ自分の気合を見せるのだ、男だったら腕相撲なんてのもいいかもしれない、、空手の大山倍達じゃないが十円玉を指だけで曲げて見せたり、ビール瓶を手刀で切り落としたり、、、とまぁ普通の人が出来ないことを見せるのも一つの手だろう、、、こいつはやばい、と思わせたらこっちのものだ。

精神的に攻めてくるやつらの場合も同じようにまず物理的に離れられるなら躊躇無く離れる事を考える、離れる事が難しいなら自分自身の肉体を鍛え精神的に強くなるしかないが、対峙することは避けたほうが無難だろう、反応することでより陰湿に行動がエスカレートする場合があるし、大抵の場合そういったやつ(ら)も精神的に大きな問題を抱えている、、、極力なるべく近づかないようにして感情的に反応はしない、絶対に負けないという気合を持ちながらも普通にしている事だ、それでなるべく早く信頼できる専門的な人間や責任ある立場の人等に相談することだ、そしてその問題のある人(人達)の対処をしてもらったほうが良いだろう、、場合によっては親、先生、更には警察よりも私立探偵って立場の人が問題の背景を洗い出し解決してくれる事もある。

ただ実際問題として、どんなに信頼できる専門家等に話をしても、問題解決に結びつかない事もある、、、であるとするならば、自分がそのいじめを受けているという現象をどう捉えるのかを変えるしかない、、、人生を生きていくうえでの試練、修行なのだと切り替え、ある種の興味を持って客観的にそのいじめの現象を分析してみるのも後に他に苦しんでいる同じような人達に役立つかもしれない。

後現代的ないじめの問題としてはネット、SNSも挙げられるだろう、、、バーチャルとはいえこれらも一つの人間社会といえる、、ただ現実世界と違うのは相手もバーチャルで、自分に当てはめてみると良く解るが、抑圧のない感情的な存在であったり、現実では面と向かって出来ない、言えないことを普通にやったり、いったりしてしまう所だろうか、、、しかもテキスト情報というのがやっかいだ、、、つまり本当の意味での感情が読みにくいからである、、ネットであっても閉ざされた限られた人間同士のやり取りもあるだろう、、、それが楽しいとも言えるが、他の人達等から隔離されている分問題が発生しやすい。

本来ならまだ発展段階の未熟な人間はお互い触れ合い、ぶつかり合い、色々な摩擦などを通じて成長していく、、、一つ一つ階段を上り、どの様な場合にどの様に対処するのが好ましいのかを客観的に見られるようになる、、しかしその成長過程でバーチャルのみに傾倒していくのは本来発達し、成長するべき所が歪みかねない、、、という事で、個人的には中学生にSNSは必要ない、高校生も限定的の方がいいだろうと思っている、結果ネットやSNSのいじめの被害者にも加害者にもならない、、スマホ等を持たない事で仲間はずれにされるのだとしたら所詮そんな程度の相手だ、相手にしなければいい。

いじめは大きな社会問題であるが、いじめる側に多数の問題があるし、又いじめられる側は何故いじめのターゲットになるのかを客観的に分析してみる必要がある、なぜならいじめるやつらは必ずいじめる相手を選んでいるからだ、誰でもいいということではないのだ、、そしてその他大多数の部外者、傍観者はこれまた勇気が乏しく、又心が弱く、ターゲットになる事が怖いからいじめる側に立ってしまう事が多い、、又同一人物がいじめをしたり、いじめを受けたりしている場合もある、、、その全貌を見ることはそれほど容易ではない。

おそらくいじめは社会問題の縮図とも言える、、、嘘と建前、欺瞞と偽善で成り立っている歪んだ大人社会の弊害等が様々ないじめという形で現れているのかもしれない、、、根深い問題である、、、。

子供にとっては唯一の頼りである親が我が子を精神的、肉体的にいじめ、虐待している場合もある、、、これは親自身が更に自分の親から虐待等を受けていた場合もあるらしいが、、、この場合の子供の心理的ダメージ、心的外傷の深さは計り知れず、問題はより複雑且つ解決は容易ではないだろう、、、正に毒親、毒人間だ、、、毒を持った生き物からは距離を保ち、身を守るしかない、、、経済的な問題と絡みこういった成熟した大人になれず精神的に未熟な大人が引き起こす様々な問題は必ずといって良いほど幼少期からの経験が影響している、、、実に深い問題だ、、、

話を戻し、人間が生きていく上での真の幸福感、心の豊かさ、手ごたえのある人生とは何なのか?を考えてみると、何故人は苦しみ、悩み、不満があってもそこから抜け出せないのか?、、、という疑問がわいてくる、、、

仮に、親に言われるがままに与えられた安定、自分が本当に喜びを感じるものを犠牲にして好きでもないのに勉強を続け(自己暗示をかけ一種の催眠状態とも言える)、真の心の欲求を抑圧して将来約束されているとされる安定した道に進んでいくという選択をしていたとしたら、、、それはある種の安定は手に入る、親の期待に応えている限りは波風立たず不安定にはならない、、

それ程興味もない科目を受験の為のみに必死に勉強して詰め込み、大学に入り一流企業に就職する、役人になる、、という一つの親が敷いたレールがある、、、目的が達成されれば幸せなはずだと信じて、、、この人が優先的に選択したのは心がワクワクするような自分の真の望みではなく側にいる人の期待、評価、人間関係を優先した、出来上がった安定した空気を壊さなかったという事、、ある意味分かり易い、想定し易いある種の安定を選んだという事(実は激動期に入りつつある現代社会に長い安定、安心は難しくなってきているが、、)、、、そう、この不満はあっても安定を優先するという自分の心の背後にある行動原理、動機は強化され続けていきます、、、

恐らく安定、安心を選んだ人は将来幸福になるであろうと信じた事のために一生懸命に仕事をして、二度と戻っては来ない今という時間、若さという時間と引き換えに学歴、経歴を積み重ね、労働等による対価、つまり今の時間を犠牲にしてお金を得て将来幸せになるための何かを得る為に必死に稼ぐ、という事を選んだのだろうと思うのです、、、でも、その幸せになるための何か、とは何なのか?

望むものが手に入る暮らしがしたい、ゆとりある安定した暮らしがしたい、趣味を楽しみながら暮らしたい、素敵な人と結婚したい、幸せな家族を作りたい、親しい友人達と楽しい時間を過ごしたい、健康であり続けたい、、、必死に勉強し、又必死に仕事をしている人が手に入れたいものとは、、、

実はそれらの多くは無自覚に既に手に入れている事が多々ある、、、将来手に入れたい豊かな暮らしって、、、、何か遠くを眺めて理想を描いているが、、家族や友人がいて、病気無く、食べる事にこまらず、安心して寝られる所がある、、、実は既にそこにあるのだ、、、見えていないのかもしれないが、、、でもそれに幸福感を感じられない、不満がある人がいる、、、何故なのだろうか、

自分自身がいつ死ぬのかは誰も解らない、だから希望を抱く事もできれば絶望することもある、、なぜかと言えば仮に明日死ぬ運命にあるとしても人はそれを知らずまだまだこの人生が続くという事が前提になっているからくよくよ悩んだりする、、、でももし仮に後1ヶ月しか生きられない命だと自覚したら、、、見えている世界、今までの考え方、人生観が崩壊していくだろう、、、そして気がつくだろう、如何にくだらないものにしがみついていたかって事に、、、

でも日々不満があるためすぐそばの幸福が見えない、、、既に手にしたかつて欲しかったものが手に入っていても心理的に不満がある、、、こんなはずじゃない、自分が間違っているはずがない、これじゃ足りない、もっと欲しい、、恐らくそういった心理状態では何をしても、何を手に入れてもその追い求める真の豊かな気持ちは永遠に訪れないかもしれません、、、なぜか?

それはかつて多少なりともキラキラと輝いていた純粋な子供の頃、若い頃に置いてきてしまったもの、、、真に心から望むものを脇にやり望まないものを優先して人生を歩んできてしまった事、つまりもう二度と戻らない若さという時間を犠牲にしてしまったからなのかもしれません、、、

誰だって自分が信じてしてきた事、自分が歩んできた道、歴史を否定する、間違っていたと認める事はつらく、又自分の存在自体を否定している様で酷く落ち込むし、これまでの信頼、友人等を失い長く立ち直れない可能性もある、、、だからうすうす解ってはいても手に入れたものを放さず、今いる場所にしがみついてしまう、その方が楽だし安定しているから、、、ある意味当然とも言える、、、がしかし、そういう隠れた想いに気がつき、冷静に過去を振り返りある種の覚悟を決めれば見えてくるものも違ってくるかもしれない、、、

ある研究者の言葉を思い出す、その人はどうすれば満足する人生を歩む事が出来るのか?を話していた、そしてこう言った、「自分が成長を感じる事が出来る事をしなさい」、、、なるほど、それも一理ありそうだ、、成長とは、、子供から大人への成長を想像すれば簡単だ、大人になってからの成長とは恐らく自ら能動的に経験、体験、学び等から、より以前の自分から脱皮して新たな自分になっていく、、つまりできなかった事が出来るようになる、分からなかった事がわかるようになる、深く理解できるようになる、といった類の事だろう、、、

今が苦しく、つらい人、つまり壁にぶち当たりお先真っ暗、八方塞がりな時はその逆が正しい、つまり安定した今の状態を崩すという事だ、と心理学者の加藤諦三が言っていた、ボクもそう思う、つまりこれまでやってきた事、生き方でそこに辿り着いた、そこが望む所じゃないとするなら勇気をもって真逆に進んでみれば明かりが見えてくるかもしれないという事だろう、、、つまりこれまでの色々な判断を冷静に思い起こし、今の現状をあるがままに受け入れ、そこを出発点として、これからは選択する場面でこれまでの逆の選択肢を選んでみるという事だ。

そして後戻りしないように生活の環境をがらっと変えてしまう事だろう、最初は大変だろう、そしてかつての楽な方に戻りたくなるだろう、でもそうなったらどうなるかは既に解っている、、そしていきなり大きな事しようとしない事だろう、紙を一枚一枚重ねるように変えていけばいつかその厚みは相当なものだろう。

何であれ少しずつでも成長するような日々を過ごし、自分を肯定的に捕らえられるようになれば仮に同じものを見てもそれまで見てきた景色とは恐らく違って見える、そんな気がする、、、

一方側から見て幸福そうな人、生き生きと日々暮らし心が豊かそうに見える人は何が違うのだろうか?

ある種単純なこの問いに答えを見出すのは実は結構難しい、、、どうしてかというと、何事を見るにしても必ず主観が入るからだ、、、だから何処に注目し、何処を見ないかを意識的に、或いは無意識に行っている、、、そして「あぁあの人は幸せそうだ」と自分の主観が思う、、、

でもある一定の尺度、等を元に問題等に直面し苦悩している人、一方問題等を抱えながらも前向きに捉えられる人、つまり結果として幸福そうに見える人の違いとは何か?という事に注目すると何となく見えてくる気がする、、

多分そういう幸福そうに見える人は自然に優先すべき事を選択しその人にとって大事な何かを犠牲にしていない、そして自然に自分のことより他人が喜ぶことを優先しているんじゃないか、、、、結果として笑顔や感謝、幸福感等が返ってくる、、これを何の見返りも期待しないでやれているとしたら、、きっとその人は常に幸せな気分なんじゃないか?と思うのです。

あるイギリスの研究者が幸せになる為の心得を言っていました、それは1に人とつながり、2に活動的で、3に物事に敏感であり、4に常に学び続け、5に他人に与えること、、、なるほど、と思います、常にそういった事を優先し、重要でないものは捨てるという勇気ある決断ができれば人生が変わるかもしれません、、。

人間生きている以上本人にとって良い事、悪い事様々な事が起こる、(良い悪いの定義は難しいが、、)当然嬉しく心が躍ることもあれば、辛く悲しい事もある、、、仮に、ある種の幸福感を感じる出来事があったとして、それが連日、いつでも起きる当たり前の事になると、感じ方は変わってくる、、、一方で、ある種の出来事に対して哀しく感じ、辛く感じ、不幸に思う、、でもその辛さを乗り越えた先には実はより深く、より広く物事を捉えられより客観的に自分やおかれた環境を眺められるようになる心の余裕が生まれてくる気がする、、、結果としてそれほど辛くなく、別の側面も見え始める、、、

ある程度人生を生きていると、かつては打ちのめされた、深く傷つき、悲観にくれたような出来事が起きたとしても既に乗り越えられる力を得ている、、そしてそれを受け止め、肥やしにして、深みのある人生になっていく、、つまり心が何気ない事や普通の生活に幸福感を感じられる準備が出来てきている、結果として何をするにしても、どんな事が起きたとしても人生が有意義に感じ心が豊かになっていく、、、そんな気がする、、、

翻って、一体ボクの人生はどうなのか、色々なものがある中、日々忙しくしているとつい忘れがちなそれらの物事における優先順位は何なのだろうと考える事があります。若い時はそんな事も考えず短期的な目標に向かって行っていたように思うのですが、最近は一体これでいいのだろうか?間違った事に努力していないだろうか?自分の心の動きはどうなのだろうか?と自問してみたり、見直したりします。

それで思う事は、普段は意識しないボクがやりたい、あるいは実現したい、手に入れたいと思い描いている事の裏側にある動機は一体何なのだろうか?という事です。

そう、その隠れた動機がどうやら実は重要だという事に気が付いてきました。何かをしたい、と思う時に「なんでそれをしたいと思うんだろうか?」と自分に問いただします。

例えば、女性であれば綺麗になりたい、美しくありたいと願うのは普通です、では何で綺麗になりたい、美しくなりたいと願うのでしょうか?

これはもう本能的なものが一番強いと思いますが、やはり子孫を残すことにに直結してくるのではないでしょうか?

つまり美しければよい男に巡り合う確率が高くなる、より良い(と思われる)子孫を残す事が出来る、というのは物凄く根本的な、又非常に強い生存本能の表れなんだろうと思います、だから多くの普通の感覚の女の子や女性は綺麗になりたいと思っています。

でもその綺麗とは美しいとは何か?その定義は?

時代や文化、国柄でも違いはあるでしょう、又女性が考える綺麗な人、と男が考える綺麗な人だと若干ニュアンス、或いはイメージは違うかもしれません、又綺麗な人=結婚相手にふさわしい、ではありません。

男が、特に若い男が女性に求める美しさはまぁ男性本能的にはあんまり立派なもんじゃないですが、つまりはセックスアピールという事になるでしょう、もちろんそれ以外の部分もありますが、、、

綺麗である事と、色っぽいとは若干違う、もちろん重なる部分も多々ある。

又好みも人それぞれ多少異なる、何処により注目しているかも好みにより違う、だからこそ多種多様な人がカップルとなり両親のDNAを引き継いだ子孫を残していく、違いがあれば何か悲劇的なことが起きた時の全滅から免れられる可能性が高まる、、、合理的な仕組みだ、、、

まぁ個人的には、綺麗=外見の美しさ、だけじゃないです、その人が持っている内なるものが滲み出てくる美しさも加わりその人自身の美しさを作り出す、いくらお化粧しても、体をスリムにしてもそういった本当の美しさは得られない。

輝いているとでも言いましょうか、そんな人は美しいと感じられるものなんじゃないか、と思うんです。

又綺麗になりたいと言っても単純に本能的な部分以外の部分でより具体的な目的もあるのかもしれません、つまり綺麗であれば就職に有利(かどうかは実際は不明だが、、)だとか、モデル等外見が重要な職業につこうと思っているとか、または自己イメージが悪く劣等感を払拭したいとか、、、

綺麗になりたい、美しいプロポーションを得たい、つまりは同姓、異性から注目されたい、尊敬されたい、綺麗であることによってより有利な何かを得たいと心の中で思っているのではないでしょうか、、

なぜ綺麗になりたいのか、美しさとは何か?よ〜く自問してみると、その背後のものが見えてくるかもしれません。

又男なら強くありたいと思う、で、「トレーニングをして強くなりたい」と思う、で、なぜ強くなりたいのか?昔と違い体力的に強くないと生き残れないという厳しい時代じゃありません。

でもこの強くありたいというのは、つまりはより異性にアピールしたいという男性本能的な部分がベースあるのは間違いない、ゴリラやチンパンジーを見てもそれは顕著、人間にもそれが言えるんだろう。

更により具体的に考えると、強い、肉体的に、或いは内臓的に強い、となれば体に抵抗力がつくとも言える、そうなると病気になりたくない、健康に暮らしたい、病弱な体を克服したい等の願望が動機付けともいえる。

ただ、根本的に強くなるとはどういう事なのだろうか?、、、肉体的に強くなって精神的なゆとりを獲得したいのか?、、、

確かにそれはある、、、でもそれだけじゃない気がする、、、

強くなる事の目的、、、人に認められたい?、、、確かに認められたいという気持ちはある、でも強くないと認められないのだろうか?、、、そんな事はないけど、弱いより強ければ直ぐに人に認められる、確かに、、、人に負けたくない、尊敬されたい、良い立場に立ちたい、という理由も同じ様な事かもしれない、、、

ホントは弱虫で、そんな恐怖心に取り付かれた小さな自分の殻を打ち破りたい?、、、

恐怖心、、、確かにあるし、これは誰にでもあると思う。トレーニングで乗り越えられるのだろうか?、、、、恐怖心とは一体なんだろう?、、、単純に痛い、辛い、苦しい、、内面では遠い昔に刷り込まれた記憶、未知なる物から自分を守ろうとする本能、、、恐怖心はある意味自分自身の心(記憶)が作り出しているものかもしれない。

それなら慣れると、つまり繰り返し同じ様な刺激を受け止め続ける事で恐怖心が薄らいでいくのか?、、ボク個人の経験からある部分ではそうだと思う。ある意味自分に自信を持つと言う事かもしれない。

厳しい肉体的トレーニング等を繰り返しそれを続けていくと痛みや辛い不快な感情に慣れて、精神的にも立ち向かう心構えが出来きていく、、、それが精神的ゆとり、安定とかにつながって恐怖心(自分の心が描き出した偶像)は薄らぎ、それ程たいした事ないと感じる。

気持ちが弱いままでも、トレーニングして体がでかくなれば小さいよりも強そうに見えるという部分はある、、、

最初に言ったように異性にもてたいと思う本能的な感情もある、強い=かっこいい(と多くの男は思っている)、だから強くなりたい。

それもある、というより多いにあるだろう、好きな人が見てると、がぜん張り切るなんて事もあるだろう、認められたいという感情とも似ている、となると「強くなりたい」というのは純粋な強さだけが本当の目的ではないというのが分かる。、、、思考や行動の裏にある本当の動機、、心と体は色々な感情と密接に関係しているようです。

単なるトレーニングという行動一つにとっても、その為の動機は様々なのが分かります。なので、一見同じようにトレーニングという行動をしている人達でも、その裏側の動機は全く違うわけです。

例えば、人助けをする人達がいるとします、行動だけを見れば皆同じです。でもその人達がなぜ人助けをしているのかはそれぞれ違います。

純粋に困っている人を助けたいという気持ちの人もいれば、他人の目を意識して自分の評価の為に行動する人、借りを作って後で見返りを期待する人、本心ではないけど規範意識でそうする人等々、、、その人がなぜそうするのかを見ず、行動だけ見て判断すると、見誤る場合があります。

又、ある人を嫌いだとします。なぜ嫌いなのでしょうか?「行動や言動が自分勝手で自己中心的、わがまま、軽薄、陰口をいう、無礼である、騒々しい等々」とにかく色々な理由で他人を嫌になる理由があると思いますが、その判断をする時に本当にその人をどの位知っているのでしょうか?

うわべだけで判断していないか?他人がつけた評価をそのまま鵜呑みにしていないか?自分の勝手な思い込みで決めつけてないか?大人になると答えを導き出す自動的な回路がよく発達しているので、ちょっとした情報のみで直ぐに答えを出す傾向があります。なので大人の判断は意外と怪しい物です。

何で人の行動や言葉にイラッとくるのか、なぜキレるのか、その背後には尊敬されたい、ちゃんと扱われたい、きちんと認められたい、更には人を支配したい、思い通りに操作したい等々、、、でも現実はそうじゃない(と勝手に思い込んでいる)、、、イラッと来るその背景には本当は自由気ままに身勝手に生きてみたいという願望が隠れているのかもしれません、、嘘で固められた外面に耐えられない内なる声の叫びがそんな感情に現れているんじゃないか、、、

或いは嫉妬等からくる自分の不満がそういった感情の元にある場合もあります。更には、実は他人の嫌な所は実は他人に隠している自分自身そのもので、自分自身を他人に投影しているんじゃないか?本当は自分も嫌な人と似たような言動をしているのにその事は棚に上げて他人を批判したり文句を言う、、、

つまり本当は認めたくない自分の真の姿をを他人に見ている様だから嫌だ、という事がある訳です。好き、嫌いと言う単純な感情でも心の裏側には色々複雑な動きがあります。

誰もが持つ感情や何かをしたい、実現したいという普段からよく感じる何気ない思いにも色々違った隠れた動機付け(心のスイッチ)があるわけです。

例えば「英語等の外国語を自由に喋れる様になりたい、コミニケーションを取りたい」と思うとします、、、どうして外国語を勉強したいのか?、、今の日本では外国語を知らなくても生活に特に困る事はありません。ではどうして?、、、「外国語が出来ない人に自慢できる」(^^;)、、単純なケースではそうかもしれない、、、実は人に自慢したいという裏側の本当の動機が見え隠れします。

または仕事で必要に迫られてという人も多いでしょう、好き嫌いに関わらず外国語が出来ないと仕事に支障がある、或いは昇進に影響が出る、さらにはリストラされる可能性がある等々深刻なケースもありそうです、この場合外国語を学ぶ理由は何であれ本当は他人との差別化による自分の保身というのが真の動機です。

つまり少しでも他人より有利な立場に立ちたいという願いがある事が分かります、でも本当は外国語自体には興味ないので実際に使えるレベルになる為には相当ハードルが高い訳です、学問に興味は無いけど試験をパスする為だけに必死に受験勉強をしている状況に似ています。

外国語が解る事で、「外国人と知り合う事が出来る」「外国文化を知る事が出来る」、、うん、それでは外国人と知り合ったり外国文化を知って何をしようと言うのだろうか?、、、趣味、仕事、更には「今好きな人が外人だから」、、そりゃそうですね(^^)、、、もちろん只単純に新しい知識を得たり、違ったものへ興味が強く、わくわくして嬉しいという感情もあるでしょう、、、この様に、どうして?なんで?を繰り返すとなんとなくそれまで意識していなかった裏側の部分が見えてきます、そう、この裏側が大事なんです。

それまでやりたいと思っていた事が実はその事自体をしたいのではなく、その結果手に入るものがホントは欲しかったという事に気が付くことがあります。又他人に期待され、特に親から期待され、その期待にこたえるため、喜んでもらう為に何かをするというのはよくある事です、地位や名誉等を得たいというのもある意味この類です、これが又厄介なんです。

本当はあるがままの自分でいたいし、わがままも言いたいし、甘えたり、好き嫌いを自由に言いたいと願うものですが、嫌われたり、見捨てられるのが怖かったり、他人の期待や他人の評価を気にしていると自分自身の本当の姿を阻害し、抑圧して行動しはじめて、結果自分が本当に何をしたいのか、自分は一体何なのかが分からなくなる時があります。

例えば、ホントは愛されたいのに、その相手に振り向いてもらえない、そしてその本当の感情の敵意や憎しみを相手にぶつけると余計嫌われる、だから自分の真の姿を隠し、よい人を演じたり、好かれようとカッコつけたり、親切になったりする。

でもそんな生活を続けていると次第に自分を失い、何に対しても関心が無くなり、無気力、無力感、無意味感に支配されていってしまったりします、、で、本当の感情はというと、怒りや憎しみ、そしてその背後にある行動の動機は?、、、そう、在るがままの存在を愛して欲しいという、愛情欲求です。

という事は自分の心の中の本当の動機に気が付いて、本当に目標としているもの(本当の目的、真の欲求)を見極め間違わない事が大事なんだという気がしています。そうする事で心が本当に求めている欲求を満たす事になるからです。

心の奥底に、「ホントはこれがやりたいんだ、、、」「これをするのが夢だった、、、」等があって、自分が望んでいる本当の動機にも気が付いている、でも親や他人の目、世間体等々でそれを抑圧して心にしまいこんでいる。そして感じないように日々過ごしていく、、、でもその想いは普段の生活に不満だと屈折した形で表に出てくる事があります。そしてその結果は悲惨かもしれません、、、もしまだ実現していない希望があるとしたらそのための選択肢はたった2つです。とにかく行動を起こすか、或いは諦めるか、です。

行動を起こして挫折し最後に諦めたのならまだいいですが、何もしないで諦めたのだとしたら将来後悔するかもしれません、特に今の生活に不満ならいつまでもその後悔の想いを引きずってしまうでしょう。で、その時に悔やんでももう遅いんです、、、。でもこれは良くある事です。いつまでたっても過ぎ去った過去に捕らわれていて、今を生きる事が出来ない。

身近な問題の恋愛でも同じです。恋に破れたとしても、心が健康なら現実を受け入れて執着しませんが、何か満たされず抑圧した感情を持った心の持ち主は、過ぎ去った破れた恋なのにそれに執着して離れられないで、いつまでたってもその事をクヨクヨ悔やんでたりします。

「あの時ああすれば良かった、こうすればこんなはずじゃなかった、、、、」周りでこういう事を言っている人はいませんか?、、どうしてその人はそうなってしまったのでしょう?、、自分がそうならない為には冷静に一度自分自身を見つめ直す必要があると思います。自分はどうしてそれを手に入れたいのか?今の自分は他人の期待にただ応えようとしているだけじゃないのか?、、一体自分は在るがままの本当の自分の気持ちに素直なのだろうか?と、、、

ボクはよく自分自身に問いかけます、人生はたった一度きり、自分に嘘をついて生きたって、それは生きたとはいえない。何があろうともいずれボク達は皆死ぬわけです。じゃあどう生きるべきかなのか!?と、、、

マラソンランナーの高橋尚子さんが東京国際マラソンで優勝して、そのインタビューで「もう戻ってこない時間を大切に、一日24時間、チャンスは皆平等にある、夢をあきらめないで、、、」という熱い言葉を聞いて感動した人はボクだけではないでしょう。それを聞いたボクは、驚きと共に、トップアスリートの彼女さえもボクと同じ様な事を感じ、考え、そして日々頑張っているんだなぁとある意味勇気づけられた感じです。ボクだって同じ人間、やれば出来るんじゃないか?そんな感じがしました。(レベルは違いますが、、、(^^;)) マラソンはホントに自分との戦い、、、人生そのものですね、、、

高橋さんに限らず、情熱を捧げ、沢山の人に勇気を与えている人達はホント素晴らしい。こんな人が沢山居ると世界はもっと良くなるんでしょうけれど、、、。高橋さんはマラソン、そして私達には私達の世界、ボクや皆さんにはそれぞれ違った役割があると思いますし、ボクも微力ながら色々頑張っています。でも行動を起こさなければ何も変わりません。皆さんもそれぞれの情熱を捧げられる本当に自分の心が欲しているものに力を注いで頑張って行こうではありませんか!

その為にはそれが出来る状況をコツコツ作っていくしかありません。その為の一歩としてまずは出来るだけ収入を増やし時間的、経済的にゆとりを作って、心の余裕が生まれた上で、人生についてもっと深く考えて、より良い人生とは何かを考えてみませんか?という事なんです。

でも気をつけなければ行けないのは現代社会で生活していく上でどうしても避けて通れないこの収入、すなわちお金を得る事ですが、そこを勘違いすると人生が微妙に狂ってきます。誰でもお金は欲しいです、ボクも欲しいです、でも大金を掴んだからと言ってもそれで必ず幸せになれるとは限りません。

知人に経済的に裕福な人がいますが、その人は実はとても孤独です。、、、「財産は残したけど今は病気で入院してます、そして振り向いたら誰も居ませんでした、、、」「お金は沢山持ってます、でも心許せる人はいません、、、」なんて余りに寂しすぎます、、、。

とにかくバランスが大事なんです。今は忙しいから、、考えてる暇がないから、、、等々、後回しにしていると後々取り返しのつかない状況になってしまいます。そこの所は十分注意が必要です。

食べていく為には今の日本では自給自足でもしていない限りどうしても収入が必要です。ですのでとにかく収入を増やす為に今は頑張りましょう!そして一日でも早く次のステップ、つまり希望を実現する為の準備をしましょう、でもそればっかりやり過ぎるとまずい事になりますよ!と言うことです。

目的が収入を得るためにだけにならないように注意しないといけないと思いながらも、知らず知らずのうちに「お金儲けだけに夢中になっていた、そしてお金に群がる卑しい人たちばかりに囲まれ、裸の大様になり、気が付いたら大切なものを失っていた、、、」なんて事にならないように、、、今もし隣の家の芝生が青く見えているとしたら、、、要注意かも、、、

何かを始めるのにある程度の資金は必要かもしれませんが、それ程なくても何とかなるものです。本当の目的はお金を貯める事ではない訳ですし、生きている間にいくら沢山お金を貯めても墓場までは持って行けないわけですから、どうお金を使うかが問題です。仲間や家族等の人間関係を大切にして、そういった人々と喜びを分かち合いながら人生で本当にやりたい事をしていく事の方がお金儲けより何倍も幸せだと思うのはボクだけでしょうか?

でも老後のために蓄えておかないと、という方も居るでしょう、又子供や孫に財産を残したいと考えている人もいるでしょう、貯蓄している殆どの人はそうなのかもしれません、ある意味心の安心ともいえます、よく分かります、でも良く考えてみてください、あなたの人生の時間はお金を貯蓄する為にあったのか?と、、

人は色々な心配事があります、特に悲観的に考える人はそれが神経症の原因になる場合もあります、これはどこかで読んだのですが、心配事の9割は起こらないそうです、そうなんです、心配するという無駄な事でより自分を痛めつけ、その心配事を呼び寄せています、でも結果心配したとおりにはならなかったというのが殆どです、

でも、悲観的な人は常に否定的なことに注目しています、良い事も沢山あるのにそれを見ようとしません、悲観的なことばかり良く覚えていて、たまたま起こると「そらみろ、心配したとおりだ!」とその考えを強化しているんです、、何とも気の毒です。

良い事は無視し、悪い事ばかりに注目する、これは習慣化してしまい、結果どんどんそれを強化し続けます。

考えて欲しいのは、心配事の殆どは起こらないということなんです、多くの無駄な心配事のために無駄な時間とエネルギーお金を使うのは止めましょうという事です。

又、子供や孫に財産を残したいという人、分かりますが、それで彼らはそれで幸せになるのでしょうか?なにも努力せずそういったものを得てしまったら、、何か人生の上で努力するというチャンスを奪ってしまっていないでしょうか?

又良く聞く遺産相続などお金に関わる問題は人間関係を破壊しているという現実です。時にお金は人間の心を変えてしまいます。

愛情はお金ではないはずです、お金や財産で愛情を表現したいという気持ちは分かりますが、それは時としてそれは受け取る人達のためにならないという事です。

いずれにしても、自分自身の人生の時間を通し、様々な心を豊かにすることをすることで、自分自身はもちろん、その周りに居る人たちも幸せになる気がします、ではどうやってその心を豊かにする時間を手に入れるのか?色々な方法があると思いますが、そのうちの一つの方法がボクがしている方法かもしれません。

とにかくインターネットの仕組みはとても強力な武器といえます、又色々な可能性を含んでいます。たった一度の人生だからこそボクは自分次第で自由な時間が取れて、ワクワクするような事が出来る生き方を選び、もっと人と心が触れ合える人生を手に入れたいと思っています。そして、今その大きな手助けになってくれているのがインターネットの仕組みやホームページ(ウェブサイト)なんです。そしてこれは誰でも出来ます!

本当に心が豊かになる事、惚れ込んだ事をするのに専念して暮らしていく為だけにお金と時間と情熱を費やしてもっと自由な人生を獲得したいと願う、、、もしそれが可能ならやってみたい、、、、可能性は誰にでもあります、後はやる気(背後にある本当の動機)の問題です。

でも何もしないか、たとえ始めたとしても途中であきらめてしまう人が多いんです、なぜでしょう?、、、、本当の所はボクにも分かりません、又しない事が本人にとっては幸せな場合もあります。でもその様な人生における消極的な行動の原因は何かしら自我形成時期に関わっている場合がある気がします。

他人に迎合し、自分がしたい事をするのではなく、他人から期待されている事をして気に入られようとする、自己肯定感が乏しく、自分を信頼していない、つまり自分を信じていないんです、だから他人も心から信頼できない、他人は辛らつな批評家と思い込んで、本当の自分を見透かされまいと常に緊張状態で批判を恐れている。他人の批判を恐れる余り何もしないでいる、でも抑圧された本当の感情が心の奥底には確かに存在している、それを正常に処理できない為自己嫌悪とジレンマに陥る、終いにはノイローゼやうつ病にまでなる。

他人を信頼していないのでそれを全て一人で抱え込もうとします。でも周りには他人を信頼している素振りをする。そうなったらその人自身はもちろん、周りも不幸です。いずれそれが外に爆発するか、自分を傷つけるようになります。

実はある時期に、似たようなものがボク自身の中にも多少あった事に気が付いたんです、、具体的に理解したのはかなり後ですが、、、。ボクの場合は自分を信頼していないと言うより、在りのままの自分は他者(特に親)から認められない存在、つまり在りのままの自分はたいして価値の無い人間なのではないか?そういう不安感から来る自己否定的な劣等感でした。

その為虚勢を張って、ホントは弱虫のくせにつっぱって強がってみたり、他人に印象付けようと目立とうとしたり、この感情は思春期の時期に強くなり、又学問にも興味が持てなくなっていて(と言うより学問は好きだったけど理解速度が少し遅かった、そして追いつけなくなった)その為成績ははっきり言って悪く、いわゆる落ちこぼれでした。

そういった部分で自分は勉強は出来ないと思い込んでいたので勉強はやる気になれず、やらないから更に成績が悪くなり、ふてくされ、自分の間違った思い込みを強化していました。又その時期は非難はされても褒められるという事があまり無かったので心のどこかで自分は世間の厄介者、恥ずかしい存在、自分なんでどうでもいいんだ、、、等と思ったり、物事を余り肯定的に捉えられていない感じでした。そのせいか当時は親ともうまくいってなく、又親戚の人達等にも余り会いたくありませんでした。会えば他の子達と比べられるからです、、、

「誰それちゃんはあそこに通って、あーしてこーして等々、偉いね〜」等と他の誰かを褒めているのを聞くと、褒めてはいるんだけど何だか愛情を感じない、でもボクについての話は特に無く、認められるような事をしないと話題にすらならない様な雰囲気、居ても居なくてもどっちでもいい、、、ボクが落ち着ける場所ではなく、心のうちを誰にも話せない苛立ちを覚えていました。

特に殆ど会うことの無い親戚のおばさんに中学生の頃みんなの前で「何そのかっこう?そんなのみっともないよ」の様な事を言われた時の事を今でも忘れません、、、殆ど話もしないのに、いきなりそんな言葉、しかも人前で、、、確かに今から思えばダサいカッコをしていましたが当時はカッコいいと思ってた訳です(^^;)、、親しい親戚の人ならともかく、その人から言われた時に何ともいえない怒りを感じたのを憶えています。

又ある時親戚の引越しの手伝いに行かされ、実際一生懸命物を運んだりしていたボクがちょっと休んで丁度来ていた他の親戚の子と話をしていると、親戚のおじさんがいきなり来て「お前はここに何しに来てるんだ?サボってるなら帰れ!」とボクだけが怒鳴られて、「何で俺だけが文句言われなきゃいけないんだ!」「ちゃんと手伝っていたのに、、、」と悔しい思いをしましたが、その時にこの親戚の人達はボクを煙たがっているんだなと言うのがはっきりしました。

そんなせいかボクは在りのままの自分では駄目なんだ、という劣等感と、同時に何ともいえない苛立ちに「じょーだんじゃねー!」みたいに反発していました。でも、もちろんその時期はそんな自分を分析していた訳ではなく、今振り返るとなんでああだったのか?、、、と言う部分に気がついた訳です。

要は在るがままの自分を素直に受け入れ、自分は自分のままでいいんだと思えず、又周りからもありのままの自分を受け入れられていない様だなという事を薄々感じていた為、その時期のボクは自己肯定感が余りもてずにいたので心は荒んでいたように思います。そしてそんな自分を守る為につっぱっていた気がします。

ただ、中学時代は心許せる友人がいた事と、プロレスに熱中していた事が唯一の救いで、その為多少は自分の世界を保ち、ある意味どこかに小さな希望を持っていた気がします。

又中学時代絵が多少うまかったボクはクラスの行事の為に当時流行っていたプロレスのレスラーの大きな絵を描いて褒められた事があり、やれば理解してくれる先生もいるんだと分かった事で、少しは心のバランスを取り戻した部分もありました。

当時の心の支えと言えばボクを熱中させていたプロレスラー、アントニオ猪木の著書「苦しみの中から立ち上がれ」でした。迷った時、悔しい時はこれを読んで自分を勇気付けていました。当時はプロレスラーに真剣になろうかとも思っていました。

ただそんな夢とは裏腹に現実の世界ではうっとおしい親等には反抗し、自分の本当の想いを誰にも打ち明ける事は無く、特に理由も考えず何とか高校に進学するも、勉強はせず、残念ながら高校では良い先生に恵まれず、プロレス熱も冷めて行き、高校等で知り合った悪友達等とうわべだけの付き合いを繰り返し、親友と呼べる仲の友人は出来ず、仕事に付いた後は一応仕事は真面目にしていて仕事自体の面白さはありましたが、何か分からない心の隙間を埋める様な毎日で将来の希望が持てていなかったように思います。

なぜか?本当の自分の心と向き合っていなかったからでしょうか、、、週末にはアメ車仲間と会い(当時ボクは古いポンティアックを自分で改造し乗っていました)夜中に仲間とドライブしたり、仲間と飲み明かしたり、今から思えば懐かしい思い出ですが、当時はそんな時間を仲間と過ごしていても何か心のどこかに空しさを覚えていました、、、幸いボクはこれではいけない、と思いガラッと生活と行動を変えました。そして人生は大きく変わりました。

情熱はある、そして真面目に頑張って行きたい、でもモーレツに努力し突っ走り続けるのはむいていない、でも無理をしていて気の休まる事の無い今の生活にチョット疲れてしまったという方は要注意です。頑張るのは大事ですが、何に自分は頑張っているのかをゆっくり考えるのも大事だと思います。

自分の弱点を隠す事に頑張って、それに成功してしまうといずれ燃え尽きて消耗しきってしまう可能性があります、燃え尽きる=ノイローゼ、うつ、廃人、、、。自分のペースでゆっくりと気の休まる時間を持って、自分の人生とは一体何か?在るがままの自分を否定していないか?他人の評価を気にしすぎていないか?等々を振り返ってみるのも無意味ではないと思います。周りにいる人等に自分の心を打ち明けてみるのも本当の自分を見つけるきっかけになるかもしれません。

どんな人でも自分に合った、そして喜びを感じる事が出来る生き方があると思います。それを見つけるには何が好きなのか?と同時に何が不満で嫌なのか?好き、やりたいと思っているを事の背景には隠れた別の動機があるんじゃないか?等を知るのが大切なポイントになります。

嫌な事があるのならどうしてそれが嫌で不満につながっているのか?等を素直に自分の心を見つめていつの時点からそうなのか?そうなった原因は何なのだろうか?その時親や周りとの関わりはどうだったのか?等を明確にして、これまでの価値観や体験、状況、全てのしがらみ等を冷静にゆっくりと見つめ直してみると、これまで気が付かなかった面が見えてくるかもしれません。

今から10年前、自分はどうなると想像していましたか?で、今どうなっていますか?

人生は本当に色々です。そして突然の出会いなどでガラッと方向が変わってしまうこともあります。でも何をするにしても、今自分がやろうとしている事、或いは今やっている事が心地よく、これからも情熱を持っていけるか?と言う所が大事じゃないでしょうか?。

つまり、やっている事に苦痛がなく、思わず時間を忘れて夢中になってしまう、これまでの経験や子供の頃を思い出してみれば一つや二つ何方でも思い当たるんじゃないでしょうか?それがいったい何なのか?そこがポイントです。

若ければ若いほど、目先の事に気を捕らわれ、今過ごしている人生はたった一度きりという事を忘れてしまったりします。そう、ボク達は必ずいつか死にます。この世から物質的な存在が消えてなくなってしまうんです。どんなにお金を掛けて健康に気をつけてもいつか必ず死にます。

これは絶対に避けられない事実です。そしてそれがいつかは誰にも分かりませんし遅かれ早かれいつか必ず来ます。今している事が何であろうと、どんな人であろうと運命は平等にやってきます。今こうして過ごしている間にも刻々と私達の残された時間は短くなっています。そして年を重ねるごとにその時間の速さを実感しているのはボクだけじゃないでしょう。又最後の日、死が突然やってくる事もあります。何をやっていたとしても死ねばそこで現世の活動は終了です。

それはそうだし分かってはいるんだけど、実感が湧かないし、やらなきゃいけない(と思い込んでいる)事があるからその他の事は後回し、という人は多いでしょう。そうやってどんどん本当にやりたい事を先送りにして結局殆ど何もやらないまま「しまった!!!」と気が付いた時には手遅れの状況になっています。そこで、、、

もし、仮に命が後1年だけとはっきり分かっているとしたら残りの時間をどう過ごしますか?やりたい事全ては出来ませんので、選択する事になります。そこでやる事が本当にやりたい事、つまり優先順位が高いものなんです。

ボクが言いたいのは、普段は後回しにしがちの、その優先順位の高いやりたい事をやる為の人生を一日でも早く手に入れませんか?そしてその準備を今から始めませんか?という事なんです。もしそれまで本当の心を抑圧し、何かを犠牲にしてきて、これからもそれを続けるなら将来きっと後悔することになります。

ボク自身、確かにお金は持っているけれど心が歪んでしまった孤独な人を見るたびに、お金儲けや仕事だけを最優先に考え、その他の事を犠牲にして間違った事に努力してしまうとこうなってしまうんだ!と自分を戒めながら日々自分の進む道を模索しています。

方向性を間違うと、たとえお金持ちになって財産を残したとしても惨めで孤独な生涯を送ることになってしまう、実に皮肉です。お金だけの希薄な人間関係では心の安らぎは生まれません。その時にこんなはずではなかった、、、と嘆いても遅いんですね、、、特に今の日本を見ているとそう思います。

皆さんに考えて欲しいのは物質的には豊かな今の日本で、いったいどれだけの人が健康的で、心が充実した豊かな生活送っているでしょうか?という事なんです。もし本当の心の感情を抑圧し、何かを犠牲にしているとしたらそれは本当に幸せでしょうか?

自分の本当の感情とは別に、お金になるから、儲かるからと始めた商売や仕事で喜びを感じられるのか、、言い換えればいつまで本当に望んでいる事を抑圧し続けるのでしょうか、、、たった一度の人生、それでいいんですか??って事なんです。でも中には普段の生活で心が満たされず不満なのに、そこにしがみついて離れようとしない人がいます。

なぜそうなってしまうのか?最初はよく分かりませんでしたが、色々な本を読んだり、セミナーを聞いて分かった事は、そういう人は現状には不満なのにそこから脱却しよう、或いは望んでいるものを手に入れよう、という具体的な努力や行動は自分からはあまりしないで、他の人等が何か自分にしてくれるのを期待して待っているらしいんです。

見方を換えると、そういった人は自尊心が強くて、自分は特別の存在だから他の人は自分の望む事をしてくれて当然で、特別に扱われるべきだと無意識に思ってしまっている様です。でも現実はそうならないから不公平だと不満なんです。「なるほど、これはボク自身にもあるかもしれない」そう思うと、人間の心理にも興味が出てきます。

不満なのに自分からは行動しない人は本当の自分を抑圧して隠しています。他人の評価がとても気になるので、もし本当の自分をだして非難されたり、否定されるのはとても怖くて耐え難い事なので、本当の自分では勝負しようとしません。感情を抑圧して無い物と思い込み虚勢を張っているので結果的に自分に嘘をついてしまうんです。そして結果が悪いのは自分ではなく他人等他のモノのせいだといつも不満を持つようになります。

本当の自分を受け入れず、本当の自分の心が欲している物を無視して、別の物で埋めようとする悪循環に陥ってしまいます。すると他人の幸福が妬ましく見え、それらと比べ、どうして私だけ?、、、と生きているのがむなしくなる、すると欲望が肥大化してしまい、その感情を抑える事が出来なくなってしまう。

それがひどくなると他人に対する敵意や憎しみ、妬み、自分に対する依存症や精神障害、無気力、うつ状態、最後には自殺願望まで持つ様になります。間違った事にエネルギーを使ってしまっているんです。まるで基礎がしっかりしていない上にどんどんビルを建てているようなものです。崩壊するのは時間の問題です。

ボクはこういった人を決して否定しているわけではありません、むしろボクは多かれ少なかれそういった部分を持った人間の一人でしたし、今でもまだ多少はあるかもしれません。だからより完成した人間に少しでも近づきたいと思っています。でも人は神様じゃないですし、だれだって否定的な感情はあります。だけど健康的で、普段の生活を自分らしく生きている人はそれを上手に発散し溜め込む事はしないんです。

でも本当の自分を抑圧している人は、理性でそういった感情を押さえ込んでどんどん心の奥底に溜め込んでしまうんです。そして溜め込まれた感情は屈折した形で出てきます。これはホントに問題です。

今なんでこれ程経済的に豊かな日本なのに自殺者や引きこもり、いじめや虐待等人の感情や心に起因する問題が多いのでしょうか?はた目からは経済的に豊かで幸せそうに見える人たちが実は内面でものすごくジレンマに悩まされ、多くの悩みを抱えているのに心の底から信頼できる人が居ない為誰にも本音を打ち明けられず、一人で苦しんでいる人も多かったりします。

逆に、経済的には豊かとはいえないものの人々と心通わせ、笑いが絶えず、自分に正直に生きている人達をみると本当の幸せとは一体何なのかを考えさせられます。自分自身で体験した事を思い出せば、そういった人々との暖かく心が通った交流等の体験が人生を生きる上での原動力といえますし、ボクはこれからもそういった時間をより多く手に入れたいと願っています。

でも、心に問題を抱えていて、本当に望んでいるものを手にいれようとしない人達でも人生を変えるチャンスはあるんです。普段の生活ではありえない、予想を越えた厳しい状況(災害や大事故等)に出くわしたりしてそれを他人と共有し、乗り越える経験をするとそれまでの見方から全く変わってしまう事はよくあります。

又思いもかけないような人との出会いでこれまでの自分が崩れ去り生き方がガラッと変わる事もあります。住む環境を変えることで変わることもあります。自分では打ち破れなかった殻が、何かをきっかけに破れて結果的に本当の自分が表に出てしまったわけです。引きこもりの子達に良く見られる現象です。

一度表に出てしまえば後は崖から転げ落ちるようにどんどん自分を表に出し、望んでいる方向に進んでいけるでしょう。そしてそういった小さなきっかけはあちこちに転がっています。でも盲目的に日々を暮らしているとそれが中々見えないんです。希望は人を見捨てませんが、人々が希望を手放してしまうんです、とは良く言ったモンです。正にその通りですね。

日本というとても豊かな国に暮らすボク達の置かれている状況を改めて見直すと、如何に物質的に恵まれているのかが分かります。後は自分次第でいくらでも幸福になる可能性がある事に気が付きます。自分に正直に素直に行動するだけなんです。

けちな人なら自分はケチだ!と認めちゃうんです。ぐっと楽になります。臆病なら臆病でいいじゃないですか、今が不満だから妬むんです、不満の根本を探っていきましょう。怒りをぶちまけたい人には勇気を持ってぶちまけましょう。そうする方が意外とより良い関係になれる場合があります。

時に怒りは時代を動かす大切な感情です、嫌いなのに好きな振りをするのはやめるべきです。そして自分を知り尽くしていない人に振り回される必要は無いんです。他人の評価や築いた財産なんて死に直面するような絶望の淵に立った時には全く意味の無いことに気が付きます。

大それた事をする必要はないんです。ボク達は時々どうでも良い小さな事に拘ってしまう場合がありますが、とにかく他愛も無い小さな事にとらわれず、他人の目を気にせず、あるがままの自分で、自分の心を抑圧せず、本当に心が望んでいる事を始めましょうという事なんです。そうすればきっと手ごたえのある充実した生活が実感できるようになると思う訳です。

小さな幸福は身の回りに沢山ありますし、捉え方次第では何でもない様なことでも、とても幸せに思えます。ただ自分に嘘をついている人にはそれが見えなくなってしまっているんです。これまで当然だったものが突然無くなって始めてその有難さが分かり、それまでのことを後悔したりします。後悔してから動くのか、後悔する前に動くのかは人それぞれですが、行動を起こすのに遅過ぎるということはありません。

でも若い時は世の中を良く知らず、限られた世界観や価値観である意味どこか妥協して小さな世界に住んでしまいがちです。収入や今ある物や生活を維持する為だけに仕事をして、不満はあるけれどそんな日々暮らしていく内にそれが確立されてしまい、否定的な感情や周りの雑音、誘惑等に負けてずるずると流されていったりします。ボク自身もそういった事で悩んでいた時期もありましたし、気持ちはよく分かります。(^^;)

そうではあっても、どんな人でも心の奥底ではより自由に、好きな事をして収入を得たいと願っているんじゃないでしょうか?でも殆どの人はその為の行動は起こさず、いつかはなんて思っているうちに年を重ね、日々の暮らしに追われて夢を見失っていってしまっています。そしてある日気が付くのです。あの時ああすればよかった、あれをやっておきたかった、、、等々。

でもそれに気が付いた時には皮肉にも人生の時間はそれ程残っていません、、、そしてその最後の日はある日突然やってきたりします。これでは悔やんでも悔やみきれません。

そうならない為にもまずは、本当にやりたい事、手に入れたいものの優先順位をつけて、その為の小さな目標を決めて少しづつ始める事が大事だと思います。そして苦労も喜びも一緒に分かち合えるようなよりよい人間関係を築く為にあるがままの自分を受け入れて、自分に正直に、そしてよりよい時間を少しでも多く持てるよう今から行動を始める事をお勧めします。理想は好きで、熱中できる事を仕事にする事ですが、好きな事、熱中できる事をする為にそれとは別に、これまでの自分の経験を生かした何かを始めるのも一つの手です。でもあくまでメインは本当に心が望んでいる事を手に入れる為です。

そうは言っても若い人の中には自分のやりたい事が見つからない、将来の希望が持てないと悩んでいる人もいるでしょう。でも現代のような複雑な社会環境に暮らしていれば当然といえば当然です。こういう悩みを持った人は恐らく人生の中での絶対的な経験不足の場合が多いので、とにかく何らかの行動を起こして欲しいです。そして色々な人と関わりあうべきです。

行動すれば何かが起きますし、誰かと出会います、そうすれば何かか変化します。行動せずにあれこれ頭の中だけで考えてもなかなか答えは見つかりません。なぜなら経験量が少ないのでいったい何に一番喜びを感じ、自分に向いているのかが分からないわけですから。世の中には自分の想像を超えたものが沢山あり、それらの事を目の当たりにすると想像を遥かに超えた感動を覚えます。とにかく、多くの自然や人と交わって自分にある五感をフルに働かせて感性を磨くと喜びは倍増しますし、悲しみは半減します。

人生の中での多くの実体験や思い出こそお金で買うことの出来ない貴重な物の一つではないでしょうか?でもその貴重な体験や知識、生き方や技術を自分の人生、或いは他の人の人生、社会等に生かしきれていないとしたらこれはもったいないと思います。

年を重ねた人は長い人生の中では沢山の浮き沈みを経験し、楽しい事、辛い事を乗り越えて今に至っているわけです。経験の少ない若い人にとっては、人生の先輩のこういった経験の一つ一つが価値のある財産じゃないでしょうか?例えば年を取ってからも好きなことに情熱をささげ、それを今でも貫いて楽しく充実した人生を送っている人の話や体験談等はお金を払ってでも聞いてみたい物です。

一方では仕事を一生懸命やってきたものの、仕事熱心のあまり定年退職等を迎える頃には家族関係が冷え切ってしまい希薄な人間関係に悩み、人生に挫折してしまったという人もいるでしょう。これはそれ自体は残念で辛い体験ではありますが、そういった話はそうならない為にの反面教師とてしての価値があると思います。失敗から学ぶ事は多いのです。自分自身が持っている体験等をどう生かすのかはボク達次第なんです。

仕事以外にやってこなかった人が定年後に社会と関わらなくなり、必要性を感じられず急に老け込んでしまうという事は少なくないかもしれません。特に家から出る必要がなくなり、他人と関わる時間が少なくなると孤独感がさらに心を打ちのめしてしまうかもしれません。

それではご本人はもちろん、社会にとっても望ましい事ではないですし、人にはそれぞれ違った役割や得意分野が必ずあると思いますから、自分には何もないと思い込んでいても実は他の人が必要としているものを持っている事があります。とにかく今は仕事等が忙しいとしても一人になれる時間を作り、何にも邪魔されずゆっくりと考える時間を持つことをお薦めします。

そして生きている中で喜びが大きい事の一つは、自分のしている事が結果的に人にも(特に自分の中で重要な特定の人に)認められ、感謝され、尊敬される等、心が豊かになるような喜びです。こういった喜びはモノを買った時など物質的な満足感と違い、長持ちしますのでいつまでたっても幸せな気分が続きますし、明日への活力にもなります。

でも、何度も言いますがやっぱり一番大事なのは、自分がしている事が好きか?と言う部分です。本当は好きじゃないけど他人に喜ばれるから何かをするというのはどこか無理があります。100%好き、或いは嫌いというのは殆どありえませんし、好きな事でも、時には面倒な事もあります。多少嫌な事もあるけど絶対に手を省かないし、やっぱり楽しい、そんなものがホントに好きな事で、それを人生の中で見つけるべきじゃないでしょうか?

満足いく人生とは豪邸を建てることでもなければ、総理大臣になる事でもない、自分の心と体の健康を保ち、自分が好きな事を出来る環境を作り、喜びを分かち合い心許せる家族や仲間を作る、これに尽きるんじゃないでしょうか?そしてそれが他人の役に立ち、人に喜ばれればより満足度が高まるでしょう。これは誰にでも可能です。

見方さえちょっと変えて、自分の経験などを生かしてそれが人の役に立てばとても嬉しい事です。好きなことして、しかも人に認められ喜ばれる事で食べて行けるとしたらどんなにすばらしいでしょう!自分の心が望んでいる事をやるのに加えて、それで人に感謝されるようなことが出来ると人生本当に楽しくなると思います!とにかく始めてみることです。人生はそれ程待っていてはくれませんから。

ボクが行ったネットでの具体的な方法をこちらで紹介しています


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